他のスポーツには代え難い、馬術の魅力とは 

住友商事 四国支店長兼新居浜支店長 曽根原 滋さん

Interview

2010.01.21

住友商事四国支店長兼新居浜支店長の曽根原滋さんが、馬術競技を通し、馬と出合ったのは、中学1年の時だ。「親父が乗馬をやっていた関係で、連れられて見に行ったんです」。自分もやってみたいと、当時、通学している中学校区をベースに行われていた馬術のスポーツ少年団に入り、たちまち馬に魅了された。「いいなあと思ったのは、まず高さ。馬にまたがると視点が変わるんです。馬の背丈も入れて約2・5mから見る景色。別世界でしたね。そして馬を自分で操作できるということ。自分の意志が通じて、馬が理解してくれる楽しさを感じました」

馬術入門はスポーツ少年団で

それからというもの、中学では所属していたテニス部で練習、土曜になるとスポ少で馬術を学ぶという日々となった。「皇居の中の皇宮警察の馬を定期的にお借りして、指導を受けました」。大会にも出場した。「都の大会も出ましたし、馬事公苑ではスポ少対抗の大会もありましたねえ」。高校入学後も馬術を続けた曽根原さん、大学に入学してからは、馬との付き合いがもっと密なものになっていく。

馬漬けの日々・・・大学時代

大学の馬術部は三鷹にあった。部員は毎日、厩舎で飼育する数頭の馬の世話に明け暮れた。一緒にいる時間が長くなってくると、馬とも気持ちが通じてくる。「なかなか大学に行けなくなりましたが(笑)」。馬術技術にも磨きがかかった。関東学生大会、オリンピック記念大会などに出場、優秀な成績を残した。

当時のパートナーは、大学所有のヘイクロウという6歳馬。競馬のレースを走っていたサラブレッドで、性質にはやや過敏なところがあった。引退して大学の馬術部にきたのだが、「大きくて過敏、最初は手に負えない馬だった。だから下級生にまわってきたんじゃないのかな」。曽根原さんは4年かけて調教した。大会の障害飛越競技と総合馬術競技にはヘイクロウと出場、成績も残した。「信頼関係ですね。つきあいが長くなると、話をしてから障害物を指さすと、自分から行って跳んで帰ってくるくらいになっていました」。実は、ヘイクロウの名前は、江戸時代の馬術家に因んだものだった。「讃岐高松藩の馬の名手・曲垣平九郎に由来しているんです。香川への転勤となって、縁を感じました」

馬がくれる「癒やし」の時間

貴族のスポーツのイメージが強い馬術競技だが、それは昔のこと。命ある動物が相手なので、餌やりや糞の始末などは毎日のことだ。「毎日の餌代は大学などの補助だけでは足りず、私たちもアルバイトに精を出しました」。馬が発する匂いも強く、馬に対して愛情を持てないと続かないものだ。「また馬をやりたいな、自分の馬を持って競技に出たいなと思いますが、それには相当の覚悟と、時間的にも経済的にも余裕が必要ですね。まあ時間ができてから、老後の楽しみでしょう(笑)」。

中学時代に出合い、馬への思いは現在も変わらない曽根原さん。馬術は他のスポーツには代え難いものがあるという。「仕事が忙しくても、乗馬クラブなどに馬を見に行くと癒やされます。馬のことを考えるだけでも穏やかになれますね」。気持ちの切り替えにも一役買っている馬とのつきあいは、これからもずっと続きそうだ。

曽根原 滋 | そねはら しげる

略歴
1953年 2月 千葉県生まれ
1977年 3月 東京大学農学部卒業
1977年 4月 住友商事株式会社入社木材部
1984年10月 マレーシア サンダカン事務所
1985年10月 マレーシア コタキナバル事務所
1988年 9月 木材部長付
1990年 6月 物資本部長付
1991年 4月 物資企画開発室長付
1994年 8月 Ipanema Shoe Corporation
      ニューヨーク駐在
1995年 8月 米国住友商事株式会社業務部
1999年 4月 物資企画開発室長付
2000年 9月 地球環境部長付
2008年 4月 環境・CSR部長付
2009年 4月 四国支店長
写真
曽根原 滋 | そねはら しげる

記事一覧

おすすめ記事

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ