小豆島を舞台にした南北朝時代の戦

中世の讃岐武士(10)

column

2021.02.18

星ヶ城山は東峰と西峰からなり、東が詰の城、西が本城だった。 山の西方に寒霞渓があり、写真は寒霞渓からの眺め

星ヶ城山は東峰と西峰からなり、東が詰の城、西が本城だった。
山の西方に寒霞渓があり、写真は寒霞渓からの眺め

建武2年(1335)11月、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した時、讃岐の対岸である備前国(今の岡山県)児島は佐々木の領有地でした。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木が源平合戦・藤戸の戦の功によってその地を賜り、そこに住む子孫が地名からと名乗っていました。

信胤は、初め尊氏側につき、讃岐の細川と共に京都攻めにも加わります。ところが、その後、南朝方に転じます。これは、信胤が、尊氏の重臣であると菊亭殿女房お(又は、お才)のをめぐって対立し、師秋が都を留守にしたすき彼女を奪って児島に連れ帰ったため、師秋の恨みを受けて武家方に留まることができなくなったことによると云われています。彼女は当時、京都3大美人の一人だったそうです。

暦応3年(1340)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、東部にそびえる星ヶ城山(標高約817m)に城を築き全島を支配します。信胤が小豆島に拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の水軍と手をにぎり、西は伊予の島に迎えられていた将軍親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました。星ヶ城山は瀬戸内海にある島々の最高峰で、北は岡山、東は淡路・鳴門、南は四国の山々まで一望することができます。この城に拠った信胤は強力な水軍を背景として大いに北朝方を苦しめます。

しかし、貞和3年(1347)、北朝側の淡路守護細川が率いる淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍により攻撃を受け、まる1ヶ月間の合戦の末、その軍門に下ります。家臣の多くは討死し、島内にはいくつもの「城崩れ」の神社などがあるといいます。その後の信胤の消息については諸説あり、討死したとも、また許されて小豆島のの領家職を与えられたとも、あるいは落ちのびて貞治元年(1362)の白峰合戦に南朝方として加わったとも云われています。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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