白峯山麓を舞台にした南北朝時代の戦(その1)

中世の讃岐武士(11)

column

2021.03.18

細川頼之が出陣に際し戦勝を祈願した田潮八幡神社(丸亀市土器町)

細川頼之が出陣に際し戦勝を祈願した田潮八幡神社(丸亀市土器町)

延文3年(1358)、室町幕府初代将軍・足利尊氏が没し、その息子の義詮(よしあきら)が2代将軍の座につくと、細川清氏(きようじ)が将軍の政務を補佐する執事(後の管領)に就任します。清氏は、足利一門である細川一族筆頭の家柄の出身です。尊氏とその弟の直義が争った観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では、常に尊氏方として戦い、幕府内における地位を高めていました。しかし、その急速な勢力拡大と強引な性格から、清氏は幕府内の諸将と対立し、康安元年(1361)、恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)され、義詮から謀反の疑いをかけられます。道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物です。

義詮に京を追われた清氏は分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれ、北朝方から南朝方に奔ります。その後、清氏は、かつて父・和氏(かずうじ)の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとします。しかし阿波はすでに守護である細川頼之(よりゆき)の勢力が浸透していたため讃岐に移ります。清氏と頼之は同じ細川一族で、従兄弟どうしに当たり、幼い頃は一緒に遊んだ仲でした。清氏は、まず三木郡白山の麓に陣を置き兵を募ります。これに応じ、従兄弟の細川氏春(うじはる)が率いる淡路勢、その弟の信氏(のぶうじ)が率いる讃岐勢、小笠原頼清(よりきよ)が率いる阿波勢、地元から神内・三谷・十河の一族が馳せ参じ、5千余騎の勢力となります。次いで白峯西山麓にあたる雄山(おんやま)の高屋(現・坂出市林田)に移り、城を構えて西長尾城(現・満濃町長炭)に籠もる南朝方の中院源少将雅平(なかのいんみなもとのしょうしょうまさひら)と連携を図ります。

これに対して、義詮は、清氏追討の令を頼之に発します。このとき頼之は、阿波と伊予の守護のほか、中国管領として備前・備中・備後の守護を兼ねており、備中の国に渡って山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。頼之は急いで宇多津に渡り、青ノ山(丸亀と宇多津の間)の麓に陣を張って兵を募ります。しかし、なかなか兵を集めることができませんでした。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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