禁門の変で討死した高松の志士

シリーズ 維新から150年(8)

column

2018.11.15

京都東山の霊山護国神社にある小橋友之輔の墓

京都東山の霊山護国神社にある小橋友之輔の墓

禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)は、文久三年八月の政変で京都を追われた尊王攘夷急進派の長州藩が、池田屋事件が起こるに及んで、元治元年(1864)7月19日、不利になった形勢を立て直すために京都に攻め込み、御所を守る会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派の軍と戦闘になった事件です。長州軍には長州藩兵のほか、各地の尊王攘夷志士による浪士隊も加わっており、その指揮には久坂玄瑞(くさかげんずい)らが当たっていました。この浪人隊の中に、讃岐高松出身の小橋友之輔(とものすけ)と太田次郎が従軍していました。

小橋友之輔は弘化3年、香川郡円座村に住む小橋安蔵の息子として生まれます。名は以義といいます。太田次郎は義理の兄に当たります。この2人は天誅組の挙兵に参加する予定でしたが、公武合体派による文久三年八月の政変により長州藩らの尊王攘夷急進派が京都から一掃されたため、長門に逃れ、その後長州軍に加わっていました。

この戦いでは、長州軍が洛中に突入し、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と御所の蛤御門や堺町御門付近で激戦となります。戦闘は一日で終わり、長州軍の惨敗という結果になりました。その戦死者は265人ともいわれています。最大の激戦地となったのは蛤御門で、この門を守っていたのは会津藩でした。長州軍の戦意と進撃は激しく、会津軍の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどでした。しかし、西郷隆盛に率いられた薩摩軍が応援に駆けつけたために戦局が逆転し、長州軍は敗走します。この時、当時19歳の友之輔は堺町御門で討死します。次郎は重囲を脱して逃れ、後帰郷しています。

禁門の変により、京都の街は「どんどん焼け」と言われる大火になり、2万7000戸の家屋が焼失します。死者は340人にものぼりました。

墓は高松市円座町のほか京都東山の霊山護国神社にもあり、また鞍馬口の上善寺にある「長州人首塚」碑には、友之輔の名が刻まれています。

次回(12月20日号)は、慶応元年(1865)4月下旬に高杉晋作が琴平で隠伏したときの話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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