無気力だった青年は「3階」で生まれ変わった!

財務省 四国財務局長 阿曽 秀昭さん

Interview

2012.03.01

「阿曽君は無気力だ」

中学や高校時代、いつも先生にこう言われていたそうだ。「勉強もダメ、スポーツもダメ。いるのかいないのかも分からない。何をやっても中途半端でしたね」。

初任地は「3階」

少し自虐的に、ユニークな口調で過去を振り返る。県職員だった父の影響で公務員の道を選んだものの、「財務局が何をするところかもよく知りませんでした(笑)」。しかし、そんな無気力青年に転機が待っていた。舞台は、初任地となった地元盛岡の、東北財務局盛岡財務部の「3階」だった。

夜通し語り合った「未来」

盛岡合同庁舎の3階にある盛岡財務部。通常の勤務は午後5時までだが、「3階」ではその先があった。

「5時を過ぎると、『おい、行くぞ!』って変な人たち(先輩)に囲まれるんです」

変な人たちが連日3階で行っていたのは、労働組合や青年婦人部の会合、それに「サンガイ」(サークルで編集・発行していた定期刊行物)の編集会議だ。「『サンガイ』は、職員が寄せる俳句や短編小説、社会への不平不満など、何でもありの自由な冊子でした。しかし、ただ3階で作っているというだけではなく、現在・過去・未来の三千世界(サンガイ)を僕たちが背負っていこう。未来へ羽ばたいていこうという熱い思いも込められていたんです」

それまで無縁だった〝熱さ〟を持つ先輩たちに囲まれ、毎晩のように酒を酌み交わし、議論し、そして「未来」を語り合った。

「イベントを開いたり、旅行に行ったり・・・昼も夜もほとんどみんなと一緒でしたね。ここまで拘束されると今だとパワハラで訴えられるかも。でも当時は本当に『家族よりも仲間が大切』だと思っていました」

やがて先輩たちの〝熱さ〟が伝わり、労組や青年婦人部の役員、「サンガイ」の編集局長を務めるほど熱中した。

「助け合い、思いやり、連帯感・・・多くのことを学びました。無気力青年が『3階』でもまれましたね」。そしてこう加える。「当時の先輩たちは今も応援してくれているんですよ。『元気でやってるか』って。うれしいですよね」

「希望の灯り」を消さないために

千葉にある自宅マンション(ちなみに3階にある)。高松に赴任する直前まで、マンションの「大規模修繕委員長」を務めていた。住人約150世帯の意見をとりまとめ、施工業者の選定や修繕計画を立てたりする。「修繕委員会は早朝でも夜間でも、『全員が参加できる』日時で開催しました。多少強引でしたけど、みなさん渋々参加してくれましたね」。「全員」にこだわったのには理由があった。

神戸財務事務所に勤務していた当時、阪神・淡路大震災の追悼行事(神戸市・東遊園地)に参加した。悲しみを忘れてはいけないと県外から駆けつけた人。参加者を炊き出しでもてなす地元の人。思いやり、絆、仲間・・・「1・17希望の灯り」を見ながら、震災が残した教訓をかみしめた。

「住人同士の距離感が縮まれば、結束が強まります。災害が起きた時、普段から顔を突き合わせていないと、身の危険を感じてまでお隣さんを助けようとは思わないですよね」。「3階」でもまれた阿曽さんらしい。

「面倒だから誰もやりたがらないですけど、誰かがやらないといけないんですよね」

「3階」から見つめる四国

「瀬戸内海の夕景が一番好きです。癒やされますよね」

総務部長だった2009年以来、高松での勤務は2度目となる。四国財務局の3階にある局長室。自身が撮影した四国各地の写真を広げながら、楽しそうに、そしてワクワクした表情で語る。

「地元の人にとっては日常の風景でも、ピカッと光るものがあちこちにある気がするんです。色々なところを歩いてみたい。足を延ばして発見して、それがうまく何かの役に立てられないかなぁと考えているところなんです」

阿曽 秀昭 | あそひであき

略歴
1953年10月27日 岩手県盛岡市生まれ
1972年 3月 岩手県立花巻北高校 卒業
1972年 4月 東北財務局 盛岡財務部総務課 採用
2002年 7月 九州財務局 鹿児島財務事務所長
2004年 7月 財務省 理財局総務課理財調査官
2007年 7月 財務省 理財局国庫課 通貨企画調整室長
2008年 7月 近畿財務局 神戸財務事務所長
2009年 7月 四国財務局 総務部長
2010年 7月 財務省 理財局管理課長
2011年 7月 四国財務局長

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