バレーボールで学んだ“泥臭さ”

JFEスチール 四国支社 支社長 黒葛原 淳一さん

Interview

2011.08.18

「まずは名前でひと盛り上がりしますね」。JFEスチール四国支社の黒葛原淳一支社長。非常に珍しい名字。「つづらばら」と読む。出身は宮崎県南部、鹿児島県との県境近くの三股町。だが、その周りでも「黒葛原姓」は決して多くはない。「子どもの頃は嫌でした。名前を言っても聞き直されることが多くて、新学期になると新しく来た先生に必ず名前の読み方を説明して・・・。

今は気に入ってます!

でも社会に出てからは『得だな』って思いますね。やはり印象に残るようですから」。東京で勤務していた頃、同じ名字の人がいると知り、わざわざ会いに行ったこともあるそう。そして・・・「高松にも『黒葛原さん』がいるんですよ。この前会いに行ってきました。『とてもお会いしたかったんです』『私もです』って。同じ宮崎出身の方でした」。宮崎や鹿児島、大分などに「黒葛原」の地名が残っている、愛媛と高知の県境に「葛原川」という川がある・・・黒葛原姓のルーツを巡ってはインターネット上でも様々な説が飛び交っている。「名前に特徴があるっていいですよね。でも・・・『JFEスチールのつづらばらです』って、とても言いにくいですけどね(笑)」

バレーボールとともに

両親はともにバレーボール選手。そして小学6年生の時、日本代表を追ったTV番組「ミュンヘンへの道」に夢中になった。「オリンピックで金メダルをとりたい」。そこから黒葛原さんのバレーボール人生が始まった。インターハイ常連校・都城工業高から日体大。そして、日本リーグ5度の優勝を誇る日本鋼管(NKK)へと進んだ。ミュンヘン五輪の金メダリスト・大古、森田、そして〝プリンス〟嶋岡・・・憧れのヒーローたちを輩出した名門チームだ。「バレーはもう卒業して、宮崎で中学の先生になるつもりだったんです」。そう打ち明ける黒葛原さんだが、「日本鋼管から声がかかった時は本当にうれしかったです」。東かがわ市出身の全日本男子監督・植田辰哉、女子監督・眞鍋政義、川合俊一らが同世代。レシーバー(現リベロ)として約10年、現役を続けた。

引退、そして―

記憶に残るシーンがある。そのひとつが愛媛・伊予三島で行われた東レ戦。黒葛原さんの引退試合だ。「ポジションがレシーバーだったので、試合の終盤、大詰めの場面で出ることが多かったんです。プレッシャーがあって精神的にしんどかったです。でも、引退試合だけはそのプレッシャーがとても心地よかった。『あぁ、こんな緊張感の中でプレーしていたんだ、それがもうなくなるのか・・・』と思うとすごくさみしかったですね」

現役引退後はマネージャーに。しかし、チームには時代の波が押し寄せる。1994年、廃部―

「解散式の進行役をしていたんですが、式の最後、台本にあった『これをもちまして、日本鋼管バレーボール部を解散いたします』という2行がつらくて読めなかった。名門チームの最後・・・強烈な思い出ですね」

日本一にはなれなかったけど・・・

バレーボール一家に育ち、次々と強豪チームを進んだ。しかし―「結局、一度も日本一になれなかったですね。悔しい思い出の方が多いかもしれません」。でも、バレーボールはたくさんのことを教えてくれた。

「何もなく終わらせない。ただじゃ負けない。時には気を静めてみて、そして〝あがいてみる〟。職場でもよく言うんですよ。『もうちょっとあがいてみようや』って。学んだのはそんな〝泥臭さ〟ですかね」

香川に来て4カ月余りで実に10キロ太ったという黒葛原さん。「空気にカロリーがあるんですよ」と笑いながら、最後にスポーツマンらしくこう締めくくった。「仕事も遊びも目一杯、こだわりを持って元気にやっていきたいですね」

黒葛原 淳一 | つづらばら じゅんいち

略歴
1961年2月26日 宮崎県北諸県郡三股町生まれ
1983年3月 日本体育大学卒業
1983年4月 日本鋼管株式会社入社
     (2003年4月 川崎製鉄(株)・日本鋼管(株)
      の経営統合によりJFEスチール株式会社設立)
2008年4月 大阪支社 大阪建材プロジェクト営業部
      プロジェクト室長
2009年4月 同 土木建材室長
2011年4月 四国支社 支社長

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