故郷の海 瀬戸内海の安全を守る

高松海上保安部長・高松港長 泉 昌宏さん

Interview

2011.08.04

念願がかなった!

「念願だったんです。故郷の海で働くことが」―。高松海上保安部長で高松港長の泉昌宏さんは広島市出身。幼い頃からいつもすぐそばに瀬戸内海があった。小学生の時は、夏休みに父と海の民宿を訪ね、釣りをしたり、サザエを獲ったりするのが何よりの楽しみだった。

1975年、海上保安庁幹部育成機関である海上保安大学校(広島・呉市)に入学。以来、「瀬戸内で働きたい」とずっと希望を出していた。そして今年4月、ようやくかなった。「穏やかな瀬戸内海を見ていると、やっぱり落ち着きます。それに高松は、川に架かる橋も多くて、広島と街の雰囲気がよく似ているんですよ」

海の向こうにあったもの

瀬戸内勤務を切望していたと話す泉さんだが、これまでは海上保安庁国際課や巡視船の機関長などを歴任。ロンドン、フィリピン、マレーシア、シンガポール・・・数々の「世界の海」を見つめてきた。海難救助などを行う潜水士のキャリアもある。そもそも海の仕事を志したのはどうしてですか?「高校生の時、船乗りかパイロットになりたいと思ったんです。海の向こうに行ってみたい。海の向こうには何があるんだろうって。知らないものを見てみたい、直接見て、聞いて、理解して・・・そんな思いが強かったですね」。入庁して35年余り・・・海の向こうには何がありましたか?「人なつっこい人やのんびりした人、富裕層や貧困層・・・様々な人と出会いました。でもやはり人は一緒です。言葉や習慣は違いますが、それぞれの環境の中で、人は皆、一生懸命生きているんですよね」

多くを学んだ「ボーイスカウト」

幼少の頃から海や自然が大好きだった泉さん。小学1年生の時、ボーイスカウトに入隊した。「近所の神社に集まっている、制服を着た子どもたちを見てかっこいいって思ったんです」。ボーイスカウトとは、自然の中でのゲームやキャンプ、ゴミ拾いなどの奉仕活動を通して、子どもたちの心と体を鍛えようという青少年育成運動だ。「当時は何も考えずに、ひたすら遊んでいただけです」。こう話す泉さんだが、自然の中で、そしていろんな遊びを教えてくれる〝大人〟とのふれあいの中で、多くのことを学んだという。「かつてはこういった活動を通して、大人が子どもたちに『社会でどのように生きていくのか』を教える風土がありましたよね。子どもを育てるというのは、親の責任であり、社会の責任でもありましたから」。泉さん自身も大学を卒業するまで、ボーイスカウト活動のサポートを続けた。「今はそういった風土は廃れてきましたね。家庭と社会との関わり合いが希薄になっている気がします。残念ですがね・・・」

豊かな海を守っていく

転勤などに伴う引っ越しはこれまでに11回。そして引っ越し先は常に現場、すなわち海のすぐ近く。千葉県に自宅マンションがあるが、一度も住んだことはないそうだ。「事故や事件などが起きた時、すぐに出動して対応しないといけませんから」

備讃瀬戸は、貨物船、タンカー、漁船など1日に700~800の船が行き来する海上交通の要衝だ。そして高松港では全国でもトップクラスの1日250隻もの旅客船が出入りしている。「瀬戸内海は、海運、漁業、海洋レジャーなど様々な経済活動が同じ場所で行われている、全国的にみても珍しい海域です。メリットが大きいので人が集まってくる。やはり瀬戸内海は〝豊か〟なんだと思います。でも、これだけ狭い場所に密集していると様々な軋轢も起きますし、危険も多いですね」

豊かな海・瀬戸内海の安全を守るために―。泉さんは自身を育んでくれた故郷の海を、そのすぐ近くでしっかりと見つめていく。

泉 昌宏 | いずみ まさひろ

略歴
1956年生まれ 広島市出身
1975年 4月 海上保安大学校入学(海上保安庁入庁)
1979年 3月 海上保安大学校卒業
1997年 4月 海上保安庁総務部国際課専門官
      海上保安渉外官
1999年 4月 横浜海上保安部
      巡視船あまぎ 機関長
2002年 1月 鹿島海上保安部
      巡視船ひたち 業務管理官
2003年 4月 鹿島海上保安署長・鹿島港長
2005年 4月 釧路航空基地長
2007年 4月 第四管区海上保安本部交通部長
2009年 4月 四日市海上保安部長・四日市港長
2011年 4月 高松海上保安部長・高松港長

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