高松城下を戦禍から救った金岳と南岳(その2)

シリーズ 維新から150年(12)

column

2019.03.21

「松平左近君紀功碑」。亀阜小学校(高松市亀岡町)の敷地内に建立されている

「松平左近君紀功碑」。亀阜小学校(高松市亀岡町)の敷地内に建立されている

藤澤南岳は恭順論を説きますが抗戦派が優勢になりかけます。そのとき松平左近(金岳)が南岳の献策をいれ、病の身ながら抗戦派を一喝して押さえつけ、藩内を恭順論に統一します。

松平左近は、高松8代藩主・頼儀(よりのり)の長男として、文化6年(1809)に生まれます。名は頼該(よりかね)、幼名は道之助、金岳は号です。長男であるにもかかわらず8歳のときに廃嫡(はいちゃく)されて国元の高松へ帰され、31歳の頃、城内の邸宅から宮脇村の亀阜荘に移り住み、「宮脇様」とも呼ばれていました。

第10代藩主・松平頼胤(よりたね)の異母兄にあたる金岳は、政事にはかかわれない立場から、学問や趣味の世界にふけり、書・画・和歌・俳句・華道・茶道など、それぞれに達人の域に達し、その才覚は藩中で及ぶ者なしといわれました。亀阜荘では、能や芝居の舞台をつくり、小国広太郎という変名を使い自ら女形の役を演じて庶民にも公開したので、「左近さん」と親しまれていたそうです。さらに、法華宗の熱心な信者でした。

また、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)の影響を受け、佐幕派が主流を占める高松藩の中にあって、唯一、勤王家たちを陰で庇護した人でした。当時、亀阜荘は、讃岐における勤王派の情報拠点基地のような存在だったらしく、国内外の勤王志士が出入りし、中でも、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らとも交渉があったようです。

18日の夕刻、2家老に切腹が命じられます。兵庫は正覚寺、又右衛門は弘憲寺で切腹しました。2人の首は、その時姫路まで下っていた征討軍総督の陣営へ届けられます。これにより高松の御城下は戦火から救われました。金岳は最後の力を出し切ったのか、この年の8月6日、病のため60歳で亡くなります。

南岳は、この後高松藩政に参画し、廃藩後は大坂に帰り、子弟の教育に力を入れます。「通天閣」や「寒霞渓」の命名者は南岳です。金岳と南岳、それと2人の家老は高松にとって忘れてはならない人でしょう。

香川県中小企業団体中央会 参与(非常勤)村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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