「踊るうどん学校」でみやげ物屋の新市場

中野屋 中野うどん学校 代表取締役社長 中野 吉貫さん

Interview

2012.02.02

「やりたい放題やって、失敗を何度も繰り返した。よく我慢してくれました」

後継ぎとして迎えられた入り婿は家業を嫌ったが、義母と家付き娘が切り盛りするみやげ物屋は繁盛した。1億円の赤字で、やっと中野屋社長の中野吉貫さん(64)は、本業に身を入れた。

観光客にうどんを打たせる「中野うどん学校」を開設、従業員の反対を押して自ら講師を務めた。うどん業界の批判も受けたが、「見る」から「体験する」への観光需要の変化に応えた、新しい市場を開拓した。

1914年、本屋として創業。義母が旅館の軒先を借りて、3坪ほどのみやげ物屋を始めた中野屋は、もうすぐ創業100年だ。

今年のこんぴら初もうで参拝者は33万人。中野屋にその約1割、3万人が訪れた。

大きくするとつぶれる!

後継ぎとして中野屋に入った中野さんは、元国鉄職員の義父・浩三さん(87)に言われた。「おできとみやげ物屋は、大きくするとつぶれる。俺のハンコなしでやるのなら、何をしてもかまわん」

義父は石橋をたたく性格だ。家業を継いで40年、中野さんの資金借り入れに一度も保証のハンコを押さなかった。そのかわり、一切口も挟まなかった。それが2人の暗黙の約束だった。

太っ腹で働き者の義母・信子さん(83)は、優しくてよく面倒を見てくれた。二日酔いで朝遅く店に出ても、嫌な顔をしなかった。

家業を見くびった

業界は旧態依然とした体質だった。上場企業の大和ハウス工業の技術開発研究所に勤めていた中野さんは、みやげ物屋を見くびった。

「商品はちゃちで単価は500円ほど。仕事といえば客引きです。誰もネクタイをしめていないことにあきれました」

金の管理もルーズで、店にレジもない。主人は空き缶やかごに入れた売上金を握って、遊びに行くのもあたり前だった。

「観光バスの添乗員さんや旅館の番頭さん、タクシーの運転手さんに、リベートを出さないと商売が出来ませんでした」。領収書のない金が動く業界だった。

みやげ物屋は、観光事業の下請け、孫請けだと思った。「こんな商売で一生暮らさないかんのか」と情けなかった。

工芸品の店も失敗

中野さんは「失敗の見本市」と自らを語る。まともな商売をしたいと、ビジネスホテル、サウナ風呂、焼き肉店などに手を出して、ことごとく失敗した。

それでも懲りなかった。「ちゃんとした四国4県の工芸品を売りたいと思ったんです。讃岐の漆器、愛媛の砥部焼き、高知のサンゴ、徳島の大谷焼きを集めた店を、栗林公園の前に出しました」

義父がハンコを押さない中野屋の養子を、銀行は相手にしてくれなかった。「義母が心配して、出里から300万ぐらい都合をつけてくれました」 

毎朝、栗林公園を散歩していた当時の金子正則知事に褒められた。

「デザイン知事と呼ばれた金子さんは、景観にマッチした店だと喜んでくれましたが、全然もうからないんです」。1978年に店を出して、毎年赤字が続いた。

目覚めた!

大鳴門橋開通が目覚めのきっかけになった。みやげ用うどんを置いてくれと知人に頼まれた。出店後6年目のことだ。義母にも銀行にも会計事務所にも、この場所なら店に並べるだけでいくらで売れると説得された。赤字が1億近く膨らんでいた。

「いつ私が目覚めるか、家族は我慢をしてくれていたんです」。ようやく決心して、琴平の店と同じみやげ品に切り替えた。

2年後の1985年、大鳴門橋が開通した。予期しない売り上げで一気に損害を取り返した。中野さんは、みやげ物商売の面白さを初めて知った。

瀬戸大橋バブル

売り上げのピークは瀬戸大橋の開通の年、1988年だった。「想像を絶する変化でした。3億が12億になったんです。税金を1億以上納めて、全国法人納税額ランキング10万社に入りました」

従業員は30人から120人になった。会社が4倍になって、世間の見方が変わった。「都市銀行から融資付きのマンションや土地購入の話が来て、物件を見ずに買いました」。借金も10億を超えた。バブルだった。2年後、売り上げは12億から8億まで落ちた。

中野さんは、1枚の古ぼけた紙を大事そうに書棚に保管している。「大和ハウスの設計用紙です。40年前、中野屋へ来た時からの売り上げを、折れ線グラフにしています」。大鳴門橋、瀬戸大橋、阪神大震災、明石海峡大橋と大きな節目ごとに売り上げが乱高下している=写真下。

踊るうどん学校

中野屋の商売の柱は、受講料1575円(税込み)のうどん学校だ。団体客に出すうどんがまずいというクレームから、「中野うどん学校」は始まった。

「多い時には2千人以上の予約客です。準備に何時間もかかるから、打ち立てのおいしいうどんが出せなかったんです」

手打ちうどんは湯がきたてが一番おいしい。自分で打ったうどんを、湯がいて食べる「うどん打ち体験」を思いついた。

「素人だからできたんです。うどん作りの本を読んで、私が教え始めたんです」

1981年から、受講者は毎年1万人ほどだった。瀬戸大橋開通ブームの時も大きな変化はなかった。

「お客さんは、うどん屋になるためではなく、遊びに来ている。せいぜい300円のうどんを、1500円も払わせて自分で打たせるとは・・・」。当時はうどん業界と旅行会社から非難された。

20年後、そのうどん学校の評価を変えたのが、〝まっちゃん先生〟こと松永澄子さん(55)だった。「足踏みを5分もしたら退屈します。それで歌と踊りでリズムをつけたら、楽しいんで喜ばれました」

受講者は10倍の年間10万人に跳ね上がった。中野屋で昼食をとる70%が、うどん打ちを体験するようになった。見る観光から体験する観光へ変わったのだ。時代の変化に中野さんも驚いている。

「よそ者」が新しい酒を注ぐ

「今があるのは、義母と家内=陽子さん(60)= のおかげ」という中野さんは、みやげ物屋は、母方の血筋を継ぐのがふさわしいと考えている。「朝6時から夜10時まで、おかみさんがきちっとしていないと店は回りません」

中野さんには3人の息子がいるが、後継ぎは娘夫婦と決めている。「家付き娘が店を継いで、婿がよそ者の目で経営する方が、古い街の良さと課題がよく見えて、活性化のアイデアも出る」と言う。

「間借りの3坪から始まったみやげ物屋が、7軒のお店を構えるようになりました。金刀比羅宮のお蔭です」

琴平に来て40年。中野さんは、古い器に新しい酒を入れる役を果たしたのだ。

浦島太郎の義父へ

高松に住む義父の浩三さんは、もう20年以上琴平に来ていない。だから瀬戸大橋のバブル以降の事業展開を全く知らない。

「借金の大嫌いな義父を心配させたらいけませんから、何も言ってないんです」。毎日店に来る義母の信子さんも、話さないという。35年前、中野さんのために里から300万を借りたことも、義父に内緒だった。

「最近、店のうわさが義父の耳に入って、一度琴平へ帰ってみたいと言います。この春、暖かくなったら来てもらいます」

自分が生まれた小さな家が、参道に店を何軒も軒を並べる中野屋になっている。「浦島太郎みたいにびっくりする浩三さんに、『もうすぐ借金がなくなりますから安心してください』と、感謝したいんです」。中野さんは、しんみり語った。

中野 吉貫 | なかの よしつら

1947年 引田町(現 東かがわ市)生まれ
1970年 名城大学理工学部建築学科 卒業
    大和ハウス工業 入社
1972年 同社 退社
    株式会社中野屋 入社
1994年 代表取締役就任
現在に至る
公職
香川県倫理法人会会長
琴平町観光協会副会長
琴平町商工会副会長
丸亀法人会副会長
香川県飲食業組合琴平支部長
琴平町駐車場組合長
写真
中野 吉貫 | なかの よしつら

中野屋 中野うどん学校

所在地
仲多度郡琴平町796
TEL:0877-75-0001/FAX:0877-75-1155
創業
1914年
設立
1962年
代表者
代表取締役社長 中野吉貫
資本金
2000万円
売上高
7億5000万円(2011年3月期)
従業員数
83人
事業内容
土産品販売業、飲食業、通信販売業など県内9店舗経営
URL
http://www.nakanoya.net/
確認日
2018.01.04

記事一覧

おすすめ記事

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ