「子ぅ取り婆あ」から始まった一揆

シリーズ維新から150年(18)

column

2019.09.19

観音寺市室本町にある二人の殉職警官を祀る内浜霊神社

観音寺市室本町にある二人の殉職警官を祀る内浜霊神社

明治維新により封建的身分制度が廃止されると、明治6年(1873)1月10日、新政府は国民皆兵を目指す徴兵令を発布します。しかし、これに怒った農民たちによる一揆が西日本を中心に頻発し、讃岐でも名東県時代に起きています。国が兵役を「血税」と称していたことから、これを血税一揆といいます。

同年6月26日の夕方、三野郡下高野(しもたかの)村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きます。それは、我が子を溜池で溺死させた女が、たまたま池の堤で遊んでいる女の子を自分の子と思い込み、いきなり小脇に抱えて走り出したというものでした。

しかし、その直後、一人の農民が近くの延寿寺で早鐘を鳴らし続けたため、たちまち近隣の村々に「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言が広がり、多くの農民が手に手に竹槍を持ち集まり、その女に襲いかかりました。戸長がそれを制止すると興奮した者たちが戸長を殴り、さらにそれを見た者が興奮して暴徒化し、一揆に発展します。

一揆は、初め西に向かい今の観音寺市大野原町萩原へ進んだ後、翌27日には、人を集めながら三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へ那珂・阿野・鵜足・香川郡へと広がっていきます。この騒動の参加者は、総数約4万人を超え、多くは三野・豊田郡の者だったといわれています。暴徒は竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、官と名のつくものを次々と攻撃していきました。襲撃された村は約130カ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600カ所に及びました。

6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。処罰された者は約1万6千人に及びました。この騒動では、警官が二人殉死し、一揆側が死者50人を出し、7人が斬首されています。ちなみに西讃ではこの事件から123年前にも大西権兵衛を中心に大規模な一揆が起きています。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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