和食の基本 「だし」を商う極意

丸一倉庫 平井 ハナヱさん 平井 信一さん

Interview

2014.03.20

「祝 和食世界文化遺産登録」と書いたパネルが店内の正面にある。その下の木箱に、かつお、さば、いわし、あじなどの削り節が山盛りされて、旨みの甘い匂いが漂う。

店は、削り節、いりこ、昆布、海苔、干し椎茸、わかめ、煮干し、ちりめんじゃこ、するめなどが所狭しと置かれて、まるで乾物のよろずやだ。

終戦の翌年、焼け跡に店を開いた。復興期から成長期、商売を拡げた。大型スーパーの進出や食生活の変化で、店頭売りは減少したが、うどん屋用が伸びた。

夫の亡き後、平井ハナヱさん(97)が、息子の丸一倉庫社長 平井信一さん(68)と切り盛りしてきた乾物と海産物の専門店は、高松市の商店街・南新町で健在だ。

「値段と品質と品ぞろえは、量販店や大手食品メーカーにも負けません」。食品業界の寡占化が進んだが、薄利多売の鉄則で店を支えてきた。

和食世界文化遺産登録
ユネスコの無形文化遺産に2013年12月登録。

削り節
かつお節や、さば、いわし、まぐろ等の干し魚を薄く削ったもの。かつお以外を原料にするものは「削り節」と呼ぶ。

だしは和食の基本

削り節やいりこ、昆布や干し椎茸などでとるだしは、和食の基本だ。ハナヱさんの孫の孝多郎さん(40)と賢治さん(38)は、世界遺産に登録された翌日、店にパネルを掲げた。

成長が当たり前だった祖母や父が思いつかない取り組みも、若い世代のアイデアだ。客にだしを振る舞ったり、節分に香川産の海苔を使った巻寿司の恵方巻きを販売した。東京市場など全国向けにネット通販も始めた。

行列が出来て売れた

神戸市で営んでいた乾物と海産物の店が戦災で焼けて郷里に戻った。終戦の翌年、高松市の南新町で開業した。

「市街地は焼け野原で、店から当時の国鉄高松駅や三越が見えました。配給を貰うために、7軒で町会をつくりました」。鉄筋だけ残った焼け跡に、トタン板を張った。店の奥の一部屋で、ハナヱさんと夫の将信さんと3人の子供たちが寝起きした。

将信さんは九州や北海道の産地を回って、現金で仕入れた。「函館から届いた干し数の子を、樽に入れて水で戻して薄皮をむきました。木箱で送られてきたするめを、10枚ずつ束にしました」。子ども時代の信一さんの仕事だった。

品物を店先に並べると行列が出来て売れた。行列の後ろにまた人が並んで、前の人に何を売っているのか聞いた。

神戸時代の仕入れルートで品物が入った。近郊の農家が乾物や野菜を持ち込んだ。香川県中から買いに来た。徳島や岡山から行商人が買い出しにきた。

商店街のにぎわい

「主人は仕入れで留守が多く、私と番頭さん夫婦、長女、亡くなった次女、信一の6人が店を守りました」

番頭の小池和則さん(故人)と妻の富子さんは住み込みだった。「子どもがおらんから、私の隣の部屋で、2人の孫を抱いて寝てくれました」

1960年代の商店街は、琴電の瓦町駅から常盤街、南新町、丸亀町、三越へと人通りが流れてにぎわった。

「常盤街にあったダイエーの守衛さんが万引きを捕まえたら、うちの商品も盗っていたことがありました」。盗品を引き取りに行ったことを、信一さんは覚えている。

冷蔵室と倉庫で商売が大きくなった

主力商品は花かつおだ。自動削り機を店に備えて製造した。将信さんは品質管理の商品価値を見抜いていた。商店では珍しかった冷蔵室を店の裏に設けた。

夏も冬も、店頭の商品を冷蔵室へしまって、翌朝また店に出した。品質の良い自家製造の花かつおで、さらに販売量が増えた。

仕入れが増えて、原料が店で保管できなくなった。貸倉庫に預けたが不便になって、自前の倉庫を建てた。

冷蔵室と倉庫のお陰で、商売が大きくなった。3軒隣の大型店舗を買収。1956年丸一百貨店開業。菓子を売った。

「現金商売の百貨店は、親父の夢でした」。従業員は80人ほどになった。このころがピークだった。車社会が到来した。スーパーが店舗を郊外に増やした。商店街の客足が遠のき始めて、丸一百貨店は売却した。

「28歳の時、親父が病で倒れました。75歳で亡くなるまで、10年ほどは臥せがちでした」。取引先に誘われて始めたゴルフもやめた。仕事一筋になった。

乾燥で大手と勝負

乾物は、乾燥で旨みや香り成分が増す。削り節はカビで水分を抜きながら熟成させる工程を繰り返す。椎茸は陽に干すことでビタミンD2の含有量も増える。

削り節は、削ると粉がでる。粉が少ない方が、製造単価を下げられる。乾燥の度合いは、粉の歩留りと味のバランスで決まる。

「歩留りより乾燥を優先して、味で大手食品業者と勝負しています」。歩留りが悪くても、商いが出来るのは、40年余りの経験で編み出した極意があるからだ。

「在庫が多すぎる」が極意

「ようけ在庫がありますな」と銀行が言う。販路があるから、「在庫を減らせ」と言われても、仕入れ資金の借り入れが出来る。

「在庫と仕入れの相関関係」が極意だ。薄利多売は商売の鉄則。相場が上がっても在庫があるから値上げはしない。

極意は、リスクを適切に管理する金融工学理論のようだ。経験がものをいう「在庫」の工学理論で、乾物のよろずやは、南新町商店街で生き残った。

うま味調味料と称する化学調味料は、味も滋養(じよう)も、天然だしには敵わない。久しぶりに店に出たハナヱさんの顔は、昆布と削り節で湯上がりたまご肌だ。

相関関係
一方が変化すれば他方も変化するような関係。

金融工学
資産運用や取引、リスクヘッジ、リスクマネジメント、投資に 関する意思決定などに関わる工学的研究全般のこと。

◆写真撮影 フォトグラファー 太田

平井 ハナヱ | ひらい はなえ 平井 信一 | ひらい しんいち

平井 ハナヱ
1917年 旧綾南町生まれ
平井 信一
1945年 高松市生まれ
1968年 日本大学商学部卒業。家業に就く
1975年 丸一倉庫(株)代表取締役就任 現在に至る
写真
平井 ハナヱ | ひらい はなえ 平井 信一 | ひらい しんいち

丸一倉庫 株式会社

所在地


高松市城東町1丁目2番34号
TEL:087-851-3506(代)
FAX:087-822-9606
代表者
取締役社長 平井信一
創立
1959年
資本金
2000万円
従業員数
36人
事業内容
営業倉庫、乾物海産物問屋、味付けのり製造問屋
沿革
1934年 神戸市灘区水道筋3丁目8番地に於いて海産物乾物商を開始。同地在住15年
1945年 戦災のため焼失、高松に帰郷
1946年 高松市南新町にて乾物海産物商株式会社丸一商店を創立。営業開始
1956年 高松市南新町の旧太丸百貨店(常盤百貨店)を買収再建改造
    上記百貨店を株式会社丸一百貨店として営業開始
1959年 高松市城東町1丁目2番34号に丸一倉庫株式会社を設立
1963年 上記3社を合併し、丸一倉庫株式会社として、現在に至る
確認日
2018.01.04

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