承久の乱で明暗を分けた讃岐武士

中世の讃岐武士(3)

column

2020.03.19

綾川町枌所東貞重地区に鎮座する「貞重神社」

綾川町枌所東貞重地区に鎮座する「貞重神社」

文治元年(1185)、源頼朝は各国に守護、荘園・国衙(こくが)ごとに地頭を置きます。これにより幕府が朝廷の権力を侵食していき、両者の対立が激化します。讃岐では屋島の戦にも加わった後藤基清が守護に補されています。

承久元年(1219)正月、3代将軍・源実朝(さねとも)が暗殺されると朝廷と幕府の関係は急速に不安定となり、同3年5月ついに後鳥羽上皇が2代執権・北条義時追討の院宣(いんぜん)を発し、承久(じょうきゅう)の乱が勃発します。このとき、讃岐では、宮方と幕府方に分かれ、讃岐藤原氏嫡流の羽床重基とその系統の柞田(くにた)貞重らが宮方につき、傍流の新居資村(にいすけむら)らが幕府側につきます。

戦いは幕府の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐国、その第1皇子の土御門(つちみかど)上皇は土佐国、第3皇子の順徳上皇は佐渡国へとそれぞれ配流され、宮方についた公卿や武士は所領を没収されます。後藤基清らは斬首されています。ちなみに土御門上皇が土佐へ向かう途中、白峯の崇徳上皇の御陵の近くを通った際に琵琶を弾いたところ、夢に崇徳上皇が現れたという逸話が残っています。

讃岐では、幕府のために戦った新居資村が、その功によって香川・阿野(あや)の2郡を支配することとなり、勝賀山の麓の佐料に居館、その山上に詰(つめ)の城を築きます。そして、香西氏に氏を改めて讃岐藤家六十三家の棟梁の座に就き、室町時代には細川四天王の一人として活躍します。一方、宮方についた羽床氏は香西氏の下に入り、柞田氏は刈田(かった)郡(現・観音寺市)の所領を奪われて今の綾川町枌所(そぎしょ)東の地に住み着いたと伝えられています。

乱後、幕府は没収した所領に新補地頭(しんぽじとう)を配しますが、讃岐では、島津忠時が櫛梨(くしなし)保(現・琴平町)の新補地頭に補せられています。忠時は薩摩島津氏の祖、忠久の息子です。その三百数十年後、豊臣秀吉の九州攻めの時、多くの讃岐武士が戸次川(へつぎがわ)の戦で薩摩武士に討ち取られたのも妙な縁でしょう。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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