讃岐に流された後醍醐天皇の皇子

中世の讃岐武士(6)

column

2020.10.15

宗良親王大屋敷跡(三豊市詫間町)

宗良親王大屋敷跡(三豊市詫間町)

正中(しょうちゅう)元年(1324)、皇位継承についての鎌倉幕府の裁断に不満をもっていた後醍醐(ごだいご)天皇は、幕政の混乱に乗じて幕府を打倒しようと企てますが、計画が露見して天皇の側近らが処分されます(正中の変)。この失敗にも屈せず、天皇はその後も比叡山の僧兵を味方につけるなど密かに倒幕を画策します。しかし元弘(げんこう)元年(1331)、再度の倒幕計画も密告によって発覚し、天皇は身辺に危険が迫ったため御所を脱出して笠置山に篭城しますが、幕府軍の圧倒的な兵力の前に城は陥落します。そして天皇は隠岐へ配流となり、乱に加担した皇子のうち、尊良(たけよし)、宗良(むねよし)の2人の親王も土佐、讃岐へとそれぞれ配流となります(元弘の変)。しかし、護良(もりよし)親王は逃亡し、熊野・吉野辺に潜伏して国々諸方に令旨(りょうじ)を発して勤王の兵を募り、楠木正成らとともに父帝の隠岐配流中、討幕運動の中心として活躍します。

讃岐配流となった宗良親王は、山陽道を下り現在の下津井から舟で詫間に上陸したといわれています(阿野(あや)郡松山の津<現・坂出市林田>に上陸したという説もある)。親王の讃岐での行跡には諸説あるようですが、一説には荘司の詫間三郎に預けられ、しばらく海辺に近い地に滞在した後、勝間郷加茂村松林(現・三豊市高瀬町)の丘上で過ごし、まもなく林田の松山に移されたといいます。

その後、後醍醐天皇は、密かに隠岐島から脱出し、伯耆(ほうき)国船上山(せんじょうざん)で挙兵します(元弘3年<1333>)。これにより各地の軍勢が、続々と天皇方に味方するようになり、ついに鎌倉幕府は滅亡して「建武の新政」が始められます。宗良親王も讃岐に留まること1年3カ月の後、京へ戻ります。しかし、新政はわずか3年で挫折し、南北朝の争乱が始まります。この争乱の中、宗良親王は各地を転戦し、武蔵野合戦・小手指原(こてさしがはら)の戦い(1352年、現・埼玉県所沢市)のときには、将兵の士気を上げるため「君のため 世のため何か 惜しからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば」という歌を詠んでいます。この歌は坂本龍馬がよく口にしたといわれています。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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