延元2年(1337)、讃岐では、阿波の南朝方に通じる財田義守(よしもり)が本篠(もとしの)城に立て籠もり叛旗を翻すという事件が起きます。本篠城は現在の三豊市財田町の猪鼻(いのはな)越の北西の山峡にあり、阿波、伊予の南朝方と連絡するのに都合の良い地にあったことから、讃岐の南朝勢力が拠点にしようとしたものでした。結局この反乱は顕氏により鎮圧されます。
この南北朝の争乱では、香西氏と羽床氏は同じ讃岐藤家(藤原氏)の出であるにもかかわらず、承久の乱のときと同様に袂(たもと)を分かち、香西氏は武家方、羽床氏は宮方につきます。羽床氏は、鎌倉時代末期に羽床政成が千早城(ちはやじょう)攻めに一番乗りの功を挙げますが、政成の子の政長が、羽床七人衆(秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡(つくりださど)、羽床源内、脇絲目(わきいとめ)を率いて宮方につき活躍します。羽床氏が承久の乱と南北朝争乱の2度にわたって宮方についたのは、その祖である藤原家成(いえなり)が藤原北家中御門(なかみかど)流の出で、羽床氏は讃岐藤家の嫡流(ちゃくりゅう)であるという強い意識があったからだと言われています。
敗れた羽床氏は、結局香西氏のとりなしで細川氏に帰順し、以後は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。一方、香西氏は、讃岐を支配した細川宗家(京兆家(けいちょうけ))の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、戦国時代末期、香西氏は羽柴(豊臣)秀吉による四国征伐、羽床氏は秀吉の九州征伐のときにそれぞれ絶えます。
村井 眞明
歴史ライター 村井 眞明さん
- 多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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