南朝と北朝に別れて戦った讃岐藤家

中世の讃岐武士(9)

column

2021.01.21

羽床城址(綾川町)

羽床城址(綾川町)

南北朝時代の初め、北朝方(武家方)の細川顕氏(あきうじ)が守護をしていた頃の讃岐では、香川郡の香西氏、三木郡の三木氏、寒川郡の寒川氏、三野郡の詫間氏などがそれに従い、これに対する南朝方(宮方)には阿野(あや)郡の羽床氏がついていました。一方、隣国の阿波では、平野部は北朝方の細川和氏・頼春兄弟の勢力範囲でしたが、山岳部は阿波守護職の地位を細川氏によって奪われた小笠原氏を中心に南朝方でした。

延元2年(1337)、讃岐では、阿波の南朝方に通じる財田義守(よしもり)が本篠(もとしの)城に立て籠もり叛旗を翻すという事件が起きます。本篠城は現在の三豊市財田町の猪鼻(いのはな)越の北西の山峡にあり、阿波、伊予の南朝方と連絡するのに都合の良い地にあったことから、讃岐の南朝勢力が拠点にしようとしたものでした。結局この反乱は顕氏により鎮圧されます。

この南北朝の争乱では、香西氏と羽床氏は同じ讃岐藤家(藤原氏)の出であるにもかかわらず、承久の乱のときと同様に袂(たもと)を分かち、香西氏は武家方、羽床氏は宮方につきます。羽床氏は、鎌倉時代末期に羽床政成が千早城(ちはやじょう)攻めに一番乗りの功を挙げますが、政成の子の政長が、羽床七人衆(秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡(つくりださど)、羽床源内、脇絲目(わきいとめ)を率いて宮方につき活躍します。羽床氏が承久の乱と南北朝争乱の2度にわたって宮方についたのは、その祖である藤原家成(いえなり)が藤原北家中御門(なかみかど)流の出で、羽床氏は讃岐藤家の嫡流(ちゃくりゅう)であるという強い意識があったからだと言われています。

敗れた羽床氏は、結局香西氏のとりなしで細川氏に帰順し、以後は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。一方、香西氏は、讃岐を支配した細川宗家(京兆家(けいちょうけ))の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、戦国時代末期、香西氏は羽柴(豊臣)秀吉による四国征伐、羽床氏は秀吉の九州征伐のときにそれぞれ絶えます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
写真
歴史ライター 村井 眞明さん

歴史ライター 村井 眞明さん

記事一覧

おすすめ記事

関連タグ

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ