南北朝時代にあった讃岐から伊予への侵攻

中世の讃岐武士(15)

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2021.07.01

高松の氏神 石清尾八幡宮

高松の氏神 石清尾八幡宮

白峯合戦後、四国4国の守護となった細川頼之(よりゆき)は、南朝方に奔った細川清氏(きようじ)を追討する際、伊予の河野通盛(みちもり)が頼之方に兵を出さなかったことを責めて、貞治3年(1364)、伊予に向かって侵攻します。これにより通朝(みちとも)(通盛の子)は自害し、通盛も病死します。そして、通堯(みちたか)(通朝の子、後の通直(みちなお))は九州へ落ち延びて南朝方に帰順し、南朝方から伊予守護に補されます。こうしてその後も、讃岐の細川氏と伊予の河野氏との間で応酬が繰り返されます。

頼之は、このときの伊予への出陣にあたり、箆原(のはら)の庄(現在の高松市)にある石清尾八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、社殿を拡築し武具を奉納したといわれています。石清尾八幡宮では、5月に市立祭(いちだてさい)が催されますが、これは頼之が伊予の河野氏を討ったときに八幡宮に立願成就を感謝して始まった祭りで、頼之の官職「右馬頭(うまのかみ)」の名にちなみ「右馬頭市」といわれています。また、境内摂社の蜂穴神社では、9月に例祭が催されますが、これは河野氏との合戦の折り、頼之がお参りしたところ、祠の穴から数百匹もの蜂が飛び出して敵方の兵を襲い戦に勝つことができたという言い伝えによるそうです。

その後、頼之は京に上り、足利義満(3代将軍)の管領を務めます。しかし、康暦(こうりゃく)の政変(1379年)により下野し、伊予守護も解任されます。すると、河野通直は南朝方から幕府に帰順し、伊予守護に任じられて頼之の追討を命じられます。しかし、頼之は河野軍の機先を制して伊予へ攻め入り通直を討死させます。頼之の力量が改めて京の幕府にも届きます。

そこで、将軍足利義満は両者の調停に乗り出し、細川氏と河野氏の間で、細川氏は伊予守護職を河野氏に返還するものの、東予の新居(にい)・宇摩(うま)郡(現西条市・新居浜市・四国中央市)は細川氏に割譲することで和議が成立します(1381年)。その後、この2郡は約120年間にわたって細川氏と阿波の三好氏の支配を受けます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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