細川京兆家のお膝元だった讃岐

中世の讃岐武士(17)

column

2021.09.16

高松市香川町の立善寺にある頼之の墓

高松市香川町の立善寺にある頼之の墓

細川頼之(よりゆき)は、明徳3年(1392)に亡くなったとき、讃岐・阿波・土佐・備中・備後国の守護職を占めていました(伊予国の守護職は1379年に河野氏へ返還)。その守護職は、讃岐・土佐が細川宗家の家督を継いだ頼元(よりもと)(2番目の弟で養子)に、阿波が義之(よしゆき)(3番目の弟・詮春(あきはる)の子)に、備中が満之(みつゆき)(4番目の弟)にそれぞれ継承され、備後が頼長(よりなが)(1番目の弟・頼有(よりあり)の子)と基之(もとゆき)(満之の子)に各半国継承されます。

そして、宗家の頼元は、頼之から継いだ讃岐・土佐のほか自身で得た摂津・丹波の守護職を兼ね、従四位下右京大夫(うきょうのだいぶ)に任ぜられます。以後、頼之・頼元系統の細川氏は、代々右京大夫の官途(かんと)を踏襲し、その唐名(からな)を京兆(けいちょう)ということから、京兆家と呼ばれます。京兆家当主は、讃岐・土佐・摂津・丹波の4カ国守護職を世襲し、斯波・畠山氏とともに幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元(かつもと)→政元(まさもと)と受け継がれていきます。勝元は応仁の乱のときの東軍総帥です。

また、頼之の弟らを祖とする阿波・備中・和泉(備後から和泉に変更)の各守護家と、師氏(もろうじ)(頼之の叔父)を祖とする淡路の守護家が細川家庶流として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、京兆家を上屋形(かみやかた)と呼ぶのに対し下屋形(しもやかた)あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。ちなみに、元総理の細川護熙(もりひろ)氏は和泉上守護家の系統です。

こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸の8カ国において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は頼之以来の京兆家直轄地だったところで、その讃岐経営の中心が宇多津でした。当時、讃岐武士は、京兆家の権威を背景に、京において大きな勢力を張っていました。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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