咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫

シリーズ 維新から150年(3)

column

2018.06.21

坂出市櫃石島にある咸臨丸の顕彰碑(提供:坂出市産業課にぎわい室)

坂出市櫃石島にある咸臨丸の顕彰碑(提供:坂出市産業課にぎわい室)

安政5年(1858)6月19日、徳川幕府は米国総領事のハリスと「日米修好通商条約」に調印します。その時の幕府大老は井伊直弼(なおすけ)です。そしてこの条約の批准書を交換するため、遣米使節団が米軍艦ポーハタン号で派遣されることになり、幕府の咸臨丸も護衛艦として同行することになります。なお、この調印は、天皇の勅許を得ずに行われたことにより、その後尊王攘夷運動の渦を巻き起こす直接のきっかけとなった出来事でした。

ペリー来航によってようやく海防の重要性を悟った幕府は、安政2年(1855)、長崎に海軍伝習所を開設し、勝海舟や榎本武揚(えのもと たけあき)ら旗本と各地から徴用した水夫に洋式の航海術を修得させます。この時、讃岐の塩飽諸島からも島民が御用水主(かこ)役を幕府に命じられ、航海練習に参加しています。塩飽は幕領地でありながら人名(にんみょう)という自治が認められ、そのかわりに幕府から命令が下れば船で出動することが義務づけられていました。

咸臨丸は、幕府がオランダに発注した小型の木造軍艦で、米国渡航の目的はオランダ人の教官に学んだ技術を実際に試すことにあったようです。乗り込んだのは、11人の米国人とともに、軍艦奉行木村喜毅(よしたけ)、艦長勝海舟以下96人の日本人で、その中には中浜(ジョン)万次郎や福沢諭吉もいました。また水夫は50人で、そのうち塩飽出身者が35人(坂出市【瀬居島1人・櫃石島3人】、丸亀市【本島12人・牛島2人・広島11人】、多度津町【高見島4人・佐柳島2人】)を占めていました。

安政7年(万延元年)(1860)1月19日、咸臨丸は浦賀を出航します。桜田門外の変が起きる約1カ月半前のことです。そして、同年2月26日、サンフランシスコに到着します。米国人の助けを得ながらも日本最初の太平洋横断でした。しかし、塩飽の者は2人が病に倒れ、異国の地に埋葬されました。なお、その年の秋に行われた米国大統領選挙ではリンカーンが当選しています。

次回(7月19日号)は、安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変の時の話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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