このような中、高松藩は対立する二人と深い関係にありました。井伊家は、高松松平家とともに、老中と列座する幕政の中枢である江戸城溜詰(たまりづめ)の大名であり、中でも両家は会津松平家とともに常溜(じょうだまり)という上位の家格でした。このため、高松藩主松平頼胤(よりたね)(10代)も南紀派に属していました。また賴胤の跡継ぎの頼聰(よりとし)(後の高松11代藩主)は直弼の娘・弥千代姫(やちよひめ)を正室に迎えていました。
一方、高松松平家は、水戸徳川家とも光圀以来深い関係にあり、頼聰の実父である頼恕(よりひろ)(高松9代藩主)は水戸藩出身で斉昭の兄に当たり、頼聰にとって斉昭は実の叔父に当たりました。高松藩は南紀派に属していましたが、高松松平家は井伊家、水戸徳川家とも親戚関係にあり、板挟みに合う状態でした。
高松には、桜田門外の変にまつわる興味深い話が伝わっているといいます。それは、事件当日、頼聰の乗った駕籠が舅の直弼の行列の後ろに続き、水戸浪士たちは直弼を暗殺、次いで頼聰の駕籠に襲いかかったが、頼聰の顔を見て「なんだ、万之助(頼聰の幼名)か・・・」と言ってその場を去って行った、というもの。史実ではないと思いますが、高松藩の置かれた苦しい立場を言い得て妙です。
仲睦まじい頼聰夫婦でしたが、この事件後、高松藩は弥千代姫を彦根に戻し、井伊家と絶縁します。二人が再び夫婦になったのは明治になってからのことです。
次回は、文久3年(1863)7月に屋島長崎の鼻に築かれた砲台の話です。
歴史ライター 村井 眞明さん
- 多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん
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