新選組と白刃を交えた丸亀の志士

シリーズ 維新から150年(7)

column

2018.10.18

丸亀市南条町の法音寺にある土肥兄弟の墓

丸亀市南条町の法音寺にある土肥兄弟の墓

「文久三年八月の政変」で尊王攘夷急進派の長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となります。そこで、尊王攘夷の志士らは京都に潜伏し勢力挽回を目論みます。こうした中、翌年の元治元年(1864)5月下旬頃、新選組は志士らと繋がる商人・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえ、その自白により、尊攘過激派の浪士が孝明天皇を長州へ連れ去るという陰謀の存在を知ります。

事態は一刻を争うとみた局長の近藤勇は、二手に分かれ捜索を開始し、京都三条木屋町の旅館池田屋に潜伏して謀議中の浪士を発見します。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が斬り込み、真夜中の戦闘となります。その後、もう一方の土方隊が到着し、肥後熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)、長州藩士・吉田稔麿(としまろ)ら9名を討ち取り4名を捕縛する戦果を上げ、新選組の名は天下に轟きます。これがいわゆる池田屋騒動です。同年6月5日のことです。

この事件で新撰組と斬り合いをした勤王浪士は、長州藩を中心とした土佐藩、肥後藩出身の者がほとんどですが、この中に、讃岐出身の土肥七助(どひしちすけ)(諱(いみな)は実忠(さねただ))がいました。七助は新撰組との斬り合いで池田屋を逃れ、堀川の潜伏先に隠れていたところを探索中の新撰組に見つかり包囲されますが、刀を振りかざしながら囲みを破り、堀川の流れに飛び込んで夜陰に乗じて危機を脱したといいます。

土肥七助は、天保14年(1843)、丸亀京極藩士・土肥正助の息子として丸亀城下鷹匠町で生まれます。大作(諱は実光(さねみつ))という6つ年上の兄がいました。七助は学問もよくしたようですが、「地ずり剣法」という剣の使い手として知られていたといいます。七助は、久坂玄瑞ら勤王志士と交友関係にあった兄の影響で21歳のときに脱藩して、藩外での尊王攘夷運動に身を挺します。池田屋事件の後、七助は、長州へ逃れたようですが、その後消息が途絶えたといいます。

次回(11月15日号)は、元治元年(1864)7月の禁門の変のときの話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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