高松城下を戦禍から救った金岳と南岳(その1)

シリーズ 維新から150年(11)

column

2019.02.21

藤澤東畡・南岳親子の資料室(塩江町歴史資料館)

藤澤東畡・南岳親子の資料室(塩江町歴史資料館)

慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、その日の夜、宮中の小御所(こごしょ)で会議が開かれます。そこで、薩摩・長州の討幕派が土佐らの公議政体派を抑え、徳川家を新政府から排除すると決定されます。これに反発した旧幕府側の兵約1万5千が大坂城を出発し、京へ進軍します。このとき、高松藩も家老の小夫(おぶ)兵庫と小河又右衛門の指揮の下に、銃手8小隊・大砲8門・兵三百余名が旧幕府軍の一翼として従軍します。

年が明けて、慶応4年(1868)年1月3日の夕方、ついに旧幕府軍と薩摩・長州・土佐の官軍が下鳥羽付近で軍事衝突を起こし、伏見でも戦端が開かれます。この鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の全面敗北となり、高松藩も重軽傷者5人を出し、大坂から高松へ逃げ帰ります。

7日、朝廷において徳川慶喜(よしのぶ)追討令が出され、11日には高松藩征討の朝命が土佐藩に対して下ります。このとき、大坂に居た藤澤南岳(なんがく)は、高松藩の危機を救うため、高松藩浪人・山崎周祐(しゅうすけ)とともに、官軍本営に薩摩人の参謀大山格之助を訪れ、嘆願書を提出します。南岳(名は元章、通称は恒太郎、南岳は号)は、父・藤澤東畡(とうがい)の下で儒学(古文辞学)を修め、高松藩に仕えた後、大坂に在って父より塾舎泊園(はくえん)書院を継いでいました。

14日、急遽高松に戻った南岳は、11代藩主松平頼聰(よりとし)に、小夫・小河の2家老を切腹させることによる恭順策を進言します。しかし、土佐の征討軍が近づく中、高松藩内は混乱し、帰順か抵抗か、藩論は容易に決まらず、三日三晩にわたって城中で評定が続けられます。当時の激論を続けた藩内の情景を、高松出身の作家・菊池寛は、「時勢は移る」と題して書いています。

南岳は引き下がらず「薩長土が相手なれば徳川家の親藩として戦うべきだが、この度は朝廷の命令なればこれに反すれば朝敵となり国賊となる。従って恭順すべきだ」と力説します。

次回(3月21日号)に続く。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
写真
歴史ライター 村井 眞明さん

歴史ライター 村井 眞明さん

記事一覧

おすすめ記事

関連タグ

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ