日本を変える鍵を握るのは
自由でトガった若者たち

香川高等専門学校 校長 荒木 信夫さん

Interview

2024.06.20

荒木さん(右から2人目)と香川高専高松キャンパスの学生たち

荒木さん(右から2人目)と香川高専高松キャンパスの学生たち

中学時代、長岡工業高等専門学校生だった兄に、学校へ連れて行ってもらったことがある。「毎日研究室に泊まり込みで実験をしている大人みたいな高専生が中学生の私に研究を熱く語るんです。私も丸一日手伝って、研究の面白さが魂に刺さってしまった。それで高専に進学を決めました」。キャリアのほとんどを長岡高専の教員として過ごし、岩手・一関高専の校長を経て、今年4月に香川高専に着任したばかりだ。

人口減少に悩む地域で 学生起業を活性化

新潟出身だが、「厳かで落ち着きのある県民性とは真逆の性格」を自認する。憧れて入学した長岡高専は当時トップクラスの人材が集まる場だったものの、ひたすら真面目に勉強して成績を追求する同級生たちに「全然ロックじゃない!」と反発。その鬱屈は長岡技術科学大の大学院に進学するまで続いた。「優秀な先生に出会い、世界でまだ誰も解明できていないテーマに触れる機会もあり、教科書とは別世界。大学院でやっと人生のスイッチが入った気がしました」

1988年から母校・長岡高専で土木工学科の教員を務め、研究の芽の大半はアメリカ発だと気づくや居てもたってもいられず渡米。世界最先端の分子生物学に触れ、「進む道はこれしかない」と確信した。帰国して博士号を取ったのち、再び客員研究員としてアメリカに留学。「1カ月で定説が塗り替わるほど目まぐるしいイノベーションの渦中で、毎日ワクワクした1年でした」

分子生物学の知見を生かした微生物解析を土木分野で実践する研究者は少なかったことから大いに注目を集めたが、学生たちと研究に熱中していたある日、二度目の転機が訪れる。「若手教員たちが、学生スタートアップを刺激する仕掛けを考えているという。当時の私が知る研究室の学生たちは、まだまだ経験も能力も低く育ててやる存在でした。でも若い先生方が注目するのは、ロボコンの世界大会で優勝を争うようなトガった連中。企業課題をどんどん解決し、大人と対等に話せる能力と熱意にあふれ、これはもう到底敵わんと思いましたね」

50歳を迎え研究の限界を感じ始めていたこともあり、以降は学生起業支援とスタートアップによる地域創生に軸足を置く。起業家を次々と生み出す長岡高専の活発な風土を育んだ実績を踏まえ、一関高専では校長に抜擢された。長岡とは一転、アントレプレナーのアの字もない状況からのスタートだったが、人口減少が進み人材流出に危機感を抱く地域の積極的なバックアップを得て、着任2年目で高専生がものづくり技術の事業性を競う「全国高等専門学校ディープラーニングコンテスト」優勝を導くなど、スタートアップの活性化に貢献した。

若者は同調圧力に屈するな

香川高専での3年間がキャリアの集大成になる見込みだが、「日本の国際競争力が右肩下がりの今、何もしないまま引退はできない」思いは強い。変革の鍵を握るのは若者たちだと言い、特に現在30歳未満の「Z世代」に期待を寄せる。「一山当てようではなく、本気で社会貢献を考える情熱が原動力の世代。力と正義感あふれる起業家が大人のサポートを得てたくさん育てば、そこから『次の大谷翔平』も生まれるでしょう」と語り、大切なのは「大人が彼らを否定しない、口を出さないこと」だという。「失敗の果てにこそイノベーションがある。絶対に失敗しない社会を追求してきた大人たちの文化を、若者に押し付けてはいけません。同調圧力をものともせずに自分で考え自分で行動するトガりまくった人材を、香川にも育てたい」と力を込めた。

戸塚 愛野

荒木 信夫 | あらき のぶお

略歴
1958年 新潟県生まれ
    長岡高専卒、長岡技科大学院修了
1985年 民間企業研究所
1988年 長岡高専に教員として勤務
1991年 米イリノイ大学留学
1995年 米ノースウェスターン大留学
2021年 一関工業高等専門学校 校長
2024年 香川高等専門学校 校長

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