なぜ香川には美しいものがたくさんあるのか (後編)

中條亜希子

column

2020.01.03

讃岐漆芸の隆盛と香川県工芸学校の誕生により、近代の香川では多くの作家や職人が活躍していたが、戦禍によって県美術界も大きな打撃を受けた。そんな中、美術工芸に理解のある政治家たちが現れ、復興に乗り出した。

終戦後、作家たちは活動を再開したが作品発表の場もないありさまが続いた。そこで工芸学校卒の漆芸家・明石朴景(ぼっけい)らが県民のための美術館建設運動を起こし、高松市議の川野嘉平に相談を持ち掛けた。ちょうど市制60周年に合わせて観光高松大博覧会の開催(1949年)が決定していたことから、川野は博覧会場の一つを美術館に転用することを提案。在京画家の猪熊弦一郎を訪ね、猪熊の友人で建築家の山口文象に設計を依頼する運びとなった。こうして栗林公園内に戦後初の公立美術館「高松美術館」が完成し、都道府県が行う公募展としては最も歴史のある香川県美術展覧会(県展)も開催された。 

高松美術館の設立アルバムに収められた写真には、翌年(1950年)に県知事となる金子正則が写っている。金子は県庁舎などのモダニズム建築を実現したほか、イサム・ノグチや流政之らを香川に招いたことで知られる。自身はうちわ職人の家に生まれ育ったことから、伝統工芸振興の策も考えていた。

その一例がデザイン研究所や讃岐民芸館の設立だ。そこでは官民の垣根を超えて、現代の生活に合った商品開発が進められた。このような活動から生まれた製品の中に、讃岐の瓦と伝統技法を生かした灰皿がある。県内の喫茶店などでも使われたこの灰皿は、現在ニューヨーク近代美術館の永久館蔵品となっており、当時の“香川デザイン”が高く評価されたことを教えてくれる。

これらはほんの一端に過ぎない。“なぜ香川には美しいものがたくさんあるのか”の歴史をひも解くと、香川に暮らすことがよりいっそう誇らしく思えてくる。

中條 亜希子 | ちゅうじょう あきこ

所属
高松市歴史資料館 学芸員

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