近代土木の道を拓いた先人の思想を
未来にどうつなげる?

ビジネス香川編集室

Special

2023.11.16

[所蔵]土木学会附属土木図書館

[所蔵]土木学会附属土木図書館

11月18日は土木の日

「土木」の2文字を分解すると十一と十八になることと、「工学会」(現・土木学会)創立日であることから制定。土木という言葉は中国の古語「築土構木」に由来している。

四国には、日本の近代化に貢献した土木技術者がいた

インフラが整備されることで産業が発展し文化が生まれる。土木技術者たちは100年後の未来を見据え、古来より数々の土木事業を行ってきた。だが、建築物とは異なり、公共インフラの設計者の名前が表にでることは少ない。

明治から昭和にかけて、土や石、木を使った土木技術からコンクリートや鉄筋などを用いた技術への転換期。近代土木の道を切り拓き、日本の近代化に大きく貢献した四国出身の土木技術者がいた。

崇高なる近代土木の父~廣井 勇(1862-1928)

廣井勇は、のちに「近代土木の父」と呼ばれる。16歳から札幌農学校(北海道大学の前身)で新渡戸稲造、内村鑑三ら俊英と学び、やがて伝道師になる志を断ち、土木工学で日本を富ますことを選択する。アメリカでさらに技術を高め、著書はアメリカの大学で教科書として使用された。帰国後の活躍の代表が日本初のコンクリート製防波堤「小樽港北防波堤」だ。四方を海に囲まれた日本にとって、大型港の建設は緊急課題であった。日露戦争で予算が削減される中、30代の廣井は誰よりも早く現場へ向かい、冬の寒さと激しい波に挑んだ。1908年、10年の歳月をかけて完成した長大防波堤は今も小樽港を守っている。

廣井は、報賞金が渡されそうになると、「その資金で工事を一層完璧にしていただきたい」と拒絶したという。内村鑑三は、廣井の葬儀の中で「清きエンジニア」と称え、「君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆を永久に益したのであります」との言葉で友を送っている。

廣井が残したのは技術だけではない。その生き方に憧れ、教えを受けた門下生たちは世界各地で活躍、「廣井山脈」と呼ばれている。

橋梁設計のエキスパート~増田 淳(1883-1947)

増田淳も「廣井山脈」の一人だ。西通町(にしどおりまち)、現在の扇町、錦町あたりで生まれ育ち、高松中学校(現在の高松高校)を卒業し、東京帝国大学で廣井勇に橋梁工学を学ぶ。その後14年間アメリカで技術を磨き、帰国後は日本の建設コンサルタント会社の草分けとなる「増田橋梁研究所」を開設。当時は自治体内に高度なエンジニアが少なく、増田は自治体の嘱託技師として、10年間で全国各地に55基の橋梁を設計している。手書きで設計書が作られていた時代に驚異的なスピードだ。

増田は、一部の専門家の間では知られた技術者だったが、その業績は不明だった。それは官尊民卑の時代に嘱託という立場であったこと、設計資料が彼の死後散逸してしまったことによる。ところが、2002年に土木研究所に設計図等の多くが発見されたのだ。

明らかになったもう一つの特徴が、様々な構造を自在に使い分けたことだ。増田は「橋は架ける場所によって形を変え、風景に溶け込むものでなければならない」という言葉を残している。国内最古、最長、東洋一などと称される橋も多く、そのいくつかは「日本百名橋」にも選ばれ、現在も暮らしの中にある。

日本の国土は、 多くの土木技術者のチカラで作られていく

現在の土木技術者は、新たに構造物を造るだけではなく先人が造った構造物を守り、後世に残す必要がある。加えて、激化する気象災害や巨大地震に備えた「国土の強靭化」も求められている。

この新たな転換期の中で、AIによるコンクリート橋の劣化予測や風景と調和する津波防波堤の研究など、次世代の土木技術者は日々、技術を進化させている。土木の現場でもドローン測量やICT建機での無人化施工が進み、若手技術者も参入しやすくなっている。

豊かな国土をつくるために、道なき土木の道を切り拓いた廣井勇、増田淳の思いは、次世代の技術者が受け継いでいる。

WSワークショップ

●廣井はどのようにして過酷な条件下での防波堤建設を完成させたのか?

●廣井に学んだ土木技術者には、どのような功績を残した人物がいたか?

●増田はなぜ橋梁設計を量産できたのか?

●増田が設計し、今も四国内に残る橋は?

●土木技術の進歩は、くらしの未来に何をもたらす?

【取材協力: 一般社団法人 四国クリエイト協会】

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